リップマンの『世論』は古典的名著のようで、こちらの大学の政治学専攻では知らない人はいないようです。
私はこの本の原書が授業のテキストになったので、購入して読んでみましたが、リップマンの書く英文は一文が長く、また言い回しも古いのか、なかなか理解できませでした。一応通読しましたが、理解度は20%くらいだったでしょうか。ちなみに、彼の英文はアメリカ人にとっても難しいらしく、みんな頭を抱えていました。
ところが、本翻訳書は本当に分かりやすい名訳でした。リップマン独特の長い文も、読者が咀嚼できるように、適宜、短く切って、いくつかの短文に分けて訳してくれているので、すいすい頭に入ってきます。これは、おそらく原文を読んでいるアメリカ人読者よりも、日本語の訳文を読んでいる日本人読者の方がはるかによく理解しているのではないかと思います。
私もおかげさまで、無事単位が取れました。この本の訳者にはお礼の言葉がありません。
ただし、巻末の訳者による解説に、他の岩波文庫の本と違って、内容の要約が出ていないのは、ちょっと残念でした。概して古典の場合は内容が難しいし、言い方もまわりくどいので、要約があれば、事前に読んで全体のイメージがつかめて重宝します。また、大学の授業などで岩波文庫をテキストにしている場合なども、要約があれば、テストの準備に役立ちますものね。(次の改訂版では、ぜひ要約をつけていただきたいです。) メディアにおける「バカの壁」まず、わかりやすい。これは特筆すべきことだ。メディアや政治を扱う本にありがちなまわりくどさ、例えになっていない例え、自己満足の論調、難解さは全く無い。けしてくだけた調子で書いているわけではないのだが、無駄も余計なレトリックも排した文章は充分なユーモアと親しみとに満ちている。掛川氏の訳文のリズムは、原文の雰囲気を反映した素晴らしいものだと思える。
情報化社会での不可避的な「情報処理」の方法、つまりステレオタイプの仕組みを説明するくだりは、あらゆるクリエイター、文章表現だけにとどまらず、映像でも洋服でもなにもかもだ。。。何かを世の中に発信することを職とする人間は必読であると思う。当時、1920年の主流メディアといえば新聞であったかもしれないが、現在において「メディア」という言葉のカバーする幅はとてつもなく広い。ひとつのステレオタイプを製造、もしくはさらに飾り立てる可能性を有する者として、自分が「情報」というかたちのない存在に対して何を行おうとしているのか、それを認識することは必須であろう。
また、そのステレオタイプの不可避性を見つめながらも、理想的になりすぎず、また諦念に流されるわけでもない真摯に理性的な答えを模索していく姿には、この本の奥底に流れる静かな情熱を感じる。チョムスキーによって「観客形民主主義を提唱した」と批判されたこともある本書だが、決して彼はエリートによる支配形の社会をチョムスキーの論じるかたちで望んでいたわけではないだろうと思う。リップマンの理想とした情報の流通形態、そして社会の仕組みに賛否はあれども、彼がその意見を持つにあたって基本とした「情報社会の枠組み」とそこに生きる「人間の本質」に関する繊細な観察は、100年近く立った今でも充分に通用する。まさに現代の核となる部分を突いた、必読の書。