コートや背広は摺りきれて継ぎあてだらけ、帽子もぼろぼろで他人のお下がりを頂戴しながら身なりを整えます。しかも、お下がりをもらうというのに、もらうときの態度が全く下手に出ていません。むしろ逆に、あなたは自分にお下がりをくれなければならないとでも言いたげに、巧みな話術で相手からお目当てのものをせしめてしまいます。
また、この『大貧帖』の主題でもある借金に話が及べば、その振る舞いはまさに神懸りです。なぜ百關謳カはこれほど巧みに借金をし、なおかつその借金を背負いながらこれほど飄々と暮らしていけるのでしょうか。借金というものがあまりにも日常的なものになってしまっているからなのか、それとも根っからそういう性格なのか、この随筆集を読む限り、百關謳カは金というものに対して動じるということが全くありません。 貧乏とは何か、借金とは何か、そして金とは何か、そんな哲学的ともいえる百阯ャの深い思索に基づいた「実録借金地獄のしのぎ方」そんな趣の危なくもおかしな随筆集、絶対にお勧め!!
芸術家と職人の違いはなんだろう?それは、画家と絵師との違いに通じる。そして、安治こそは、明らかに後者である。(そして杉浦氏その人も)
本書は、単なる伝記ではない。安治という夭折の(少なくとも私にとっては)無名の絵師の絵を追いつつ、その作風をそのほかの同時代の絵師との比較をからめながら、再評価していく。そして、それらの絵から安治という人物を浮き上がらせてゆく。こういうときの杉浦氏の視点は、斬新で、それでいて、とても温かい。
杉浦作品の中では珍しく、そこには「江戸」はない。そこにあるのはまがいのない「東京」だ。安治は幕末の「東京」を描いた。淡々とした「東京」を描いた。そこには派手さはない。花もハレもない。にもかかわらず、安治に惹かれてゆく現代っこのカップルの目と口とを借りながら、安治の作画姿勢を浮かびあがらせてゆく過程は絶妙だ。
これは その真実を見つめ描き続けた人の話である
1人の画家としてまた 人間としての「田中一村」を見ることができる読み物です絵画に興味のある方だけではなく読んで頂きたい1冊である
知らない人の言葉よりも、知っている人の言葉のほうが理解できる。その人の人格や考え方を知っているから言葉の意味をフォローしているのである。言葉の意味はわからんがとにかく凄い自信だ、という格言の通りです。
許氏の前作までをある程度読んでからのほうがしみじみわかる。小説家と違って作家というものは、実にこの書き方について意識しないといけないねという話。
同じこと書いてると飽きるし(志鳥)、先に行き過ぎてもついていけないし、さてどうしたものか。 哀悼の辞という批評家の倫理「世界最高」といういうのは大袈裟で、疑わしい、曖昧な言葉だ。だから、あえて著者は使ったという。そこに批評家の倫理性が求められるからだ。 著者のいう倫理とはみずから選んだ作品に責任をもち、これからもその作品の在り方を問いなおすことを忘れないという意味だ。しかし、それだけでないと私は思う。 まず、この本は指揮者ごとに作品が論じられる。すると指揮者の評価と作品とが切りはなせず、指揮者の評価もしなければならない。これはかなり倫理的だ。自分にとって最高の作品を作った人間を評価すること。それはいきおい指揮者への信奉となりかねないが、ファンレターは批評ではない。といって、たんなる迎合や、しかつめらしい節度では世界最高のための言葉にならない。どうしても倫理の言葉が必要なのだ。 また、章立てが示すように本書は「クラシックへの指揮者の思い」で内容を区分する。その価値の絶対を信じて演奏に臨んだフルトヴェングラーから、その価値に疑念をいだかざるを得ない現在のラトルまで全部で五章に分かれている。が、これはクラシック演奏小史とみることができる。そして、歴史を語るにも倫理が必要だ。なぜなら、歴史とは終わったものたちをある観点から組織化するという一種の暴力なのだから。 この本の調子が著者の他書に見られないような,いわば物故した友人を哀悼するようであるなら、その原因はまさにこれらの倫理性にあるのだと思う。故人を褒めたたえるのが愛情ある弔いの辞とは限らない。たとえば、三木清に対する林達夫の「三木清の思い出」、正岡子規に対する漱石の「子規の画」がある。 本書をクラシックの死を想定したものとみなすのは、クラシックへの侮辱であろうか、筆者への過褒であろうか。 これはただの推薦本ではない「芸術として優れている」状態とはどんなことなのか。それをこの本は教えてくれる。たまたまこの本はクラシックを扱っているが、映画でも絵画でも、名作には言われるだけの理由がある。名作の理由を説明されてはじめて、それがとんでもなくすごいものだと気づくときがある。芸術的に鑑賞する体験を教えてくれる本だ。 許光俊の評価を知ってから読め。許光俊という評論家は、毒舌の面白さがあって評価されている節がある。がしかし、少し考えて欲しい。なぜかというと、お気に入りの指揮者を手放しで褒めちぎり、意に添わない指揮者には冷たいのだ。これは宇野功芳に匹敵する独善なのだ。実演に触れて感動したものを中心に評価する、そういう人だということを、クラシックを聴いてみようかな、という人はまず知っていなければならない(無論、評論家というのは主観でしか語れないものだが)。
さて、そうした認識を持った上で本書を読むと、やはり目に付くのは贔屓である。指揮者によって紙幅の使い方が圧倒的に違う。あくまでも自分の好悪によっている結果だ。自分が感銘を受けたかどうかだ。
それがわかれば、私は何もこの本を読まなくてもよいような!気がする。「最高」というのは結局主観に堕するもので、ならば、「最高のクラシック」は聴く人それぞれあってしかるべきではないかと。
つまり、読む人が注意しなくてはならぬのは、副題に「許光俊にとっての」というのが隠れているということだ。そうしないと、純粋な人は、「これがいいんだ。これ以外のものは聴く価値がないんだ」と思い込んでしまうかもしれないから、一応警鐘を鳴らしておくことにする。 進化か、それとも変節か著者はこれまで、チェリビダッケやヴァントなど、直に演奏を聴いたことのある演奏家についてのみしか語ってこなかった。録音でしか聴けない演奏家については一切論じないというスタンスだったのだ。ところが本書では、筆者はフルトヴェングラーやトスカニーニなど、往年の大指揮者について初めて語りだしたのだ。しかも、いつもの斜に構えた文体はなりを潜めており、凡庸なタイトルといい、筆者特有の「毒」がすっかり削ぎ落とされているのは驚きであった。勿論、その切り口は筆者らしい理論づけがされており、評論としての完成度は高いのだが、著者の歯に衣着せぬ批評に価値を見出す向きには少々物足りなさを感じるかも? これを進化と取るか変節と取るかは、意見の別れることだろう。
この本では、十数年に渡って毎年行われたその「まあだかい」での出来事が中心に描かれています。
還暦をすぎても乾杯でビールの大ジョッキを一息に飲み干す百關謳カ、年をとって足が悪くなり、「まあだかい」に行きたくても行けなくなって寂しがる百關謳カ。内田百闔ゥ身の手で軽妙に綴られるそんな一コマ一コマに、古き良き時代の師弟関係が生き生きとうかびあがります。
内田百閧ニいう人は非常に多面的な人物ですが、そのなかでも教師としての百閧見てみたいという方にはぜひお勧めの一冊です! 最後に、普段我々が何気なく使っている「嫌だから嫌だ」というフレーズの由来がじつは内田百閧セったということがこの本の解説を読むとわかります。