日本語でこのような音楽論を読めるということにまず驚き、感謝したくなるような一冊である。映画「アマデウス」に描かれたモーツァルトのイメージにふりまわされないように。天才的な聴覚的感性と構成力を備えた、それゆえに粗雑な音楽が創ろうにも創れなかった人間。吉田が論じる音楽は、それを創りだした作曲者の人間像に迫り、その産物である楽曲を演奏するものの内面に言及し、ひいてはそれらの背後にある文化や人間生活の実相に及ぶ。そこでは音楽は一つの専科ではなく、もはや普遍的な「もの」である。その一方で、アインシュタインの「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」という言葉に素直に共感できる柔らかい心がこの著者にあることも忘れてないけない。 我が音楽の師匠なり 吉田秀和の文章は、楽しくて人を裏切りません。相撲の話でも、セザンヌの話でも、いつも文章は生き生きしています。モーツァルトとなればなおさらです。(感嘆符が3つもついた文章のユーモア感!!!)
吉田秀和がモーツァルトについて書いた時、前には小林秀雄の「モォツァルト」がありました。たたみかけるような名文で悲劇の天才を論じた小林秀雄のエッセイには、妖しい魅力があり、毒がありました。多くの音楽ファンが小林秀雄の毒の虜になり、悲劇的な短調のモーツァルトが世に定着しました。吉田秀和は、そのような環境の中でモーツァルト論を書き始めました。 オペラに目もくれない小林に代わって「フィガロの結婚」や「魔笛」の魅力について語り、短調部分だけでなく長調の部分にこそ透明な哀しみが潜んでいることを解き明かし、何よりも無駄のない音符の配列の妙に天才のゆえんがあることを力説してくれました。18世紀のヨーロッパという時代背景についても、目配りがきいていました。
モーツァルトファンにとっては、今でもバイブルのような本です。
まずは、未完の長編小説「北方行」から。主人公(?)三造とイギリス人トムソンとの出会いは打打発止の渉り合いだった。1930年前後を舞台とした小説で、三造のように毅然として西洋人と向き合った日本人を、私は寡聞にして知らない。同じくこれほど等身大に描かれた西洋人も知らない。この長編は他にも、中国人、日中のハーフ、朝鮮人といった出自の登場人物たちで彩られる。作品としては、やや未熟とされるものの、作家の卓見は十分にうかがえる。
次に、「章魚の木の下で」は、中島敦の生涯で唯一のエッセイである。執筆時期は1942年末だが、彼は文学に「代用品はいらない」と敢然と断言する。文学者の良心というべきだろう。
他、「無題」は2巻の’過去帳’のネガなので、併せて読めば面白さ倍増。「セトナ皇子」、「妖氛録」はお話の玉手箱から最後に出てきた、怖くて不思議な短編。 更に、「新古今集と藤原良経」、「鏡花氏の文章」、「断片」ながらドストエフスキーとスタンダール、鴎外の作風分析などには、文人の眼を思わせる鋭さがある。 尚、完全無欠の名作「弟子」、「李陵」、「名人伝」は他文庫にも、もれなく収められており、ここで言及するのは蛇足だろう。
しかし、「はたして吉田氏は著者を、ピアノの名人だと思っているのだろうか」という不埒な疑問が浮かんだ途端、この賛辞の巧妙さがみえてくる。吉田秀和は国内最高の知名度を誇るこのピアニストの音楽を、どこかでほめていたかしら?また本書の解説で、吉田氏自身の経験として、「ウィットにとんだエピソード」(裏話)を「私はむしろ遠慮したかった」と書いていなかったっけ?等々。本書は、コンクールの裏事情を生々しく伝えており、読み物としては大変面白い。また、<VIII 「ハイ・フィンガー」と日本のピアニズム>の章は、日本の音楽教育の問題点を浮き彫りにした出色の評論である(何故かこの章は文章としても際だっている)。しかし、私は著者の文章力を、格別優れているとは思わない。上手な素人、または不慣れな才人、といったところである。コンクールでいえば、才能を感じさせるが未熟な若者、といった趣。この時点での著者が、プロの作家たちと文章力で渡り合うには、無理がある。もちろん、これだけの本を書くことの大変さを、私は知っている。並の人にできることではない。余技としては立派なものであり、内容の貴重さを考えると、本書の存在意義は十分であろう。 音楽好きならぜひ読みたい一冊この本は、チェルノブイリ原発事故の年、1986年に、モスクワでチャイコフスキー・コンクールの審査員を終えた後、作者が1年以上にわたって雑誌に連載した文章をまとめたもの。’89年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したという作品だけあって、文章は明快で読みやすいし、内容は濃い。チャイコフスキー・コンクールといった格の高いコンクールの内幕の様子をさらしだし、読者の野次馬的な興味を保つ一方で、そういった審査中の複雑な思い、西洋クラシックの歴史やロシアや日本での西洋音楽の成り立ち、現在のアマチュア・ピアニストの氾濫に対する作者の思いにいたるまでも描かれている。特にわたしが感心したのは、西洋クラシックのピアニストである作者が、日本伝統の「舶来崇拝主義」を否定も肯定もせずに事実として受け止めている正直な姿勢。欲をいえば、「女性ピアニスト」としての思いを、もっと深く掘り下げて欲しかった。 ピアニストから見たコンクールあまたの音楽コンクールが音楽家の登竜門として機能していることは、部外者にもよく知られている。近年では、あまりにその数が増えすぎて収拾がつかないほどだ。学問や科学の世界での雑誌の増加とどこか似ている。本書は、日本を代表するピアニストである著者が、もっとも伝統あるコンクールの一つであるチャイコフスキー・コンクールに審査員として参加したさいにものしたエッセイ。たんにコンクールの記録ということを超えて、著者が批判する「ハイ・フィンガー奏法」や日本人の演奏様式の特殊性にまで話が及んでいるのが興味深い。文章もこなれていて読みやすい。ピアノやコンクールに関心を持つ方はもちろん、中村紘子ファンにも薦めたい一書。