では、過去の物語を継ぎ合わせて物語を作るプロセスを熟知しているはずの著者が、なぜ、万人受けなり、一部の好事家に高く評価される作品なりをコンスタントに生産できないのだろう。この理論も所詮は物語について語る一端でしかないことを自分で証明しているのではなかろうか?
作品に対して、技術なり、それを埋める情熱なりが与える影響について、述べる力量に欠けてるのか、それとも意図的に議論を避けているのか、是非、その方面について語った本を自分を題材にして出してもらいたいもんだ(笑) ビックリマン世代に読んでいただきたい。久々にショックを受ける内容でした。がつんと来ました。「オタク」という言葉からほど遠い人でも、ビックリマン世代なら読むべきです。
世界観だけを手に入れ、自分で物語を作る(または体験する)事を物語消費と言うそうです。つまりそれがビックリマンであり、または同人誌であると大塚氏は言いますが、しかしこの論文(?)が書かれたのは80年代。今で言うと、ネットゲームにあてはまるのではないでしょうか。そういう意味では「物語消費者」の人数は圧倒的に増えていると思います。何が悲しいって、こういった物語消費が流行っている背景のひとつに、コミュニティーの崩壊が含まれているという事です。人間は誰でも優しく自分を包んでくれる世界で生きたいと思うものです。しかし世知辛い今、それもままなりません(涙)。自覚してるかどうかはともかく、潜在意識として「さみしい」みたいな感情がヒットの裏にあるのだとしたら....。そういえばテレビゲームが一般的に認知されるようになったのは、ちょうどバブル崩壊後ですね。色々と考えさせられる本でした。 オタクなどという言葉で汚してはいけない。なぜ、同人誌が作られるのか?ビックリマンチョコが売れるのか?この本の答えは、世界観である。
舞台の設定である。
この指摘には、ぶっ飛んだ。
奥深いストーリーとはかくして作られるのだ、キャラクターの関係性、歴史の設定、国の設定ルール。地形や自然環境などなど
このような環境設定があることで、物語は無限に増殖していく
さすが大塚さんだ。 ビックリマンの理由所謂、駄菓子屋なるものを、同時代的に経験した最後の世代と感じており、最近この手の店はあるものの、何か違和感を感じていましたが、この著作で疑問氷解いたしました。往年の駄菓子屋なるものは駆逐されたが、ビックリマンチョコレート(最近の玩食ブームにも)にその精神は脈々と受け継がれていたのだと感じ、何やらホットしました。私自身は単にこの手のものが失われたことを懐かしんでいたのですが、実はちゃっかり違う形で生き残っていて、いまどきの小学生を見る眼に、自然と優しさがこもってしまいます。小学生から思春期のお子さんをお持ちの方にぜひお勧めしたい本書であります。
著者はセルビア側、アルバニア側それぞれの対象に直に調査し、自分の目で現状を見つめ、どちらにも肩入れする事のない中立的な視点からこの書を書き上げた。「セルビアも被害者だ」と声高に主張するだけではお互いの罪状を相殺するだけの結果となる。KLAがマフィアと深い関係にあった事やセルビア人もアルバニア人もそれぞれ虐殺を行った事なども広く知られるようになった現在でも、アルバニア人はなぜか正義の側にある。それは内乱に至った経緯やNATOとの関係など複雑な情勢のなかで作り上げあられたものである。
よく取材し、また対象に幻惑されることなく、コソボを巡る現状を淡々とした筆致で記している。付け加えるとすれば、旧ユーゴスラビアの歴史的な事実への考察と論及が少ないところか。アルバニアがユーゴと別れて独立した事や、ユーゴとアルバニアがそれぞれ独自路線を採った事、クロアチア人であったチトーとセルビア人との連邦内における関係などもコソボの歴史的経緯や現状に大きく関わっている。そもそもなぜコソボがユーゴスラビアでそのように位置にあったのかということへの論及がなければなかなかセルビア人との関係が理解しづらいのではいかと気になった。
しかし、通読の必要性はともかく、第1部から第3部と、下巻に収められている第8部は読み応えがある。現代のビジネスパーソンにも、多くの示唆を与えてくれると感じる。
マーケティングの世界は、(ライバル企業との)戦争の時代から、(顧客との)恋愛の時代へと、変遷したというのが、私自身の時代認識ではあるが、しかし、この「戦争論」は、ビジネスパーソンにも、有益な一冊(二冊?)になると考える。